2015年1月21日 ザンビア・ルフンサ近郊
マラウイからザンビアに入り、そこから首都へ向けての道は途中なんの見どころもない上にアップダウンばかり、さらに道中には町が少なく補給や宿にも困るという事で、ここはバスですっ飛ばしてしまうという自転車旅行者もいるようだった。俺も迷ったが走っていく事にした。
案の定細かいアップダウンの連続で体力がみるみる内に奪われていく。アキレス腱が、膝が、次々に痛くなる。
途中の町は、というか集落は小さく宿もとても快適とは言い難いところばかり。
さらに道路工事に伴うダートの連続。そこに雨季が重なり毎日困窮の極みだった。
「バス乗ればよかった。。」
毎日後悔しながら今日も坂道を押して登っていた。あるコーナーの先に白い看板が見えた。
「memorial site」
何でもないただの記念碑でもあるんだろうと見過ごそうとしていた。
が、通り際ちらりとそこを見ると英文の中にはJAPANの文字。
「1978年、日本の海外ボランティア隊員、ここで事故に遭い、亡くなる
」
1978年。俺の生まれるより前にここに来て、働き、そして事故で亡くなった人がいるのだ。
思わず自転車をその場に置き、駆け寄った。
松田隊員の墓は1998年に作られたのだそうだがすでに苔むすような形。
ここにお参りする人はいったいどれだけいるのだろう。目の前の道は多くの人がバスで通り過ぎていくがここに気づく人はそう多くはないだろう。そしてここで降りる人も。
周囲に花が無かったので代わりに手持ちのソフトドリンクを一本開け、そこに供える。
静かに手を合わせ、冥福を祈る。
自転車を起こし、やおら漕ぎ出すと会ったこともない顔も知らない松田隊員の事に思いを馳せる。
すると自然と涙が出てきた。そして嗚咽してしまった。
こんなところで。。今でもここらへんは電気も水道も通ってない。。。携帯だって集落があるところで辛うじて使える位。37年も前はいったいどんな不便なところだっただろう。今みたいに家族や友人と気軽に連絡なんかとれなかったに違いない。すぐに相談出来る人も手段もなく、現地の人達に揉まれて活動していたのだろう。
日本での安住の暮らしを投げ売って骨折ってここで働き、ここで果てた彼。
誰もいない、誰に聞かれることもない、走りながら声を出して泣いた。
松田隊員、安らかに眠れ。