期間 |
2004年9月-2005年5月 約9ヶ月
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訪問国 |
中国(上海・雲南省)・ラオス・ ベトナム・カンボジア・タイ・ インド・ネパール・ バングラデシュ・パキスタン
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費用 |
約45万円 |
鑑真号で上海へ。鑑真号は中国人がほとんど。その他西洋人が数人、日本人バックパッカーが3人乗っていた。
次に寝台列車で40時間ほど、雲南省昆明。バスで大理。大理はバックパッカーにはいわゆる「ハッパ」で有名なところ。宿の庭にまで大麻草が生えていて、バックパッカー達は堂々とそれらの草をテラスで乾燥させていたのが印象的だった。
大理から景洪、ラオスへとバスを乗り継いだ。
ラオス最初の町はムアンシンという町。カラフルな衣装の少数民族の人達が市場でちらほら見かけたのを覚えている。その後古都ルアンパパーン、マリファナで有名なバンビエン、首都ビエンチャン、タケク、パクセー、メコン河の中洲シーパンドン、サバナケットからベトナムへと抜けた。
古都フエ、日本人町があったホイアン、ビーチリゾートのニャチャン、サイゴンと旅をした。あんまりベトナムらしい写真というのが残っていないのは残念だ。
首都プノンペン、トンレサップ湖西方のバッタンバン、アンコールワット観光拠点シュムリアプに滞在。バッタンバンからトンレサップ湖の水上集落をバスのように結ぶボートが印象に残った。水上集落では学校やガソリンスタンドまである。
タイランド湾に浮かぶダイビングアイランド、タオ島と
映画「ザ・ビーチ」のロケにも使われたアンダマン海のピピ島に
滞在。ビーチや海でリゾート三昧であった。
ピピ島が大津波で壊滅するのは僕が去って2週間程後。地球的な時間からしたら一瞬の差だっただろう。生きている事を実感した出来事だった。
タイからはブータンのエアライン・ドゥルクエアでインド・カルカッタへ。当時はドゥルクが一番安かったのだ。
活気あふれるカルカッタ、ブッタ悟りの土地ブッタガヤ、ガンジスで沐浴バラナシ、首都デリー、インド経済中心地ムンバイに滞在。
ドレもコレも突っ込みどころ満載であった。なんでそこらじゅうに牛が?とか。腹立たしい時もあれば次の瞬間心の底から笑う事もあった。
日本は何もかも便利で整っていて、でもそれは人間から人間味を失ってはいないだろうか。人間そのままの姿がインドにはあったように思った。
人間と人間がぶつかり合うような喧騒のインドからネパールへ上ってくるとほとんどの旅人がホッとする。それはネパール人の顔立ちがなんとなく日本人っぽいのもあるし、人との接し方も相手への思いやりが含まれているように優しいのだ。
数十年前からバックパッカーが集ってきたカトマンズは旅人に必要なものは何でもあった。日本語の古本屋、快適で格安なゲストハウス、そして日本とまったく遜色ない日本食レストラン群。
旅人はネパールで一時の安らぎを得た後、再びインドへと下っていくのだった。
そして当時はマオイストと呼ばれる共産ゲリラがネパールの各地を支配していて、政府軍との戦闘が各地であった。旅人が戦闘に巻き込まれる事はまず無い状況なのだったが、マオイストが「ストライキ」を都市住民に強制させるのには辟易した。「ストライキ」の時にはバス、商店もほぼ全てが休業。別にマオイストと共闘しているのではなく、開店しているとマオイストから嫌がらせがあるからなのだという。
イスラム原理主義ゲリラなどと違って「外国人は狙わない」と名言してるおかげで外国人ツーリスト専用バスだけは運行していたのは救いだった。
ラホールから入国、爆弾テロの相次いでいたペシャワル、そしてナウシカのモデル地域とまことしやかに噂される桃源郷フンザを旅した。
ペシャワルとフンザについては以下のエッセイが雰囲気をよく伝えられるのではないかと思う。
アフガンとの境界エリア「トライバルエリア」について以前書いたエッセイ
桃源郷フンザへ向かうバスについてのエッセイ